2013/06/24 STAFF BLOG

 パノラマVRを表現する際、よく用いられる言葉に「体験」という語があります。「まるでその場にいるかのような体験」、「これまでにない新しい体験」、こうした言葉でパノラマVRは表現され、事実それは我々の感想を率直に表現していると言えます。ところが、パノラマVRとよく似たメディアである写真や映画を受容する事について、我々は「体験」とは表現しません。それらは「鑑賞」するものであって、「体験」するものではないというのが、一般的な感覚です。
 同様に、19世紀のパノラマもまた「体験」するものであったと想像できます。壁面にぐるりと貼られた風景画はパノラマの道具立ての一つであって、それを絵画として鑑賞する事はなかったはずです。これら2種類のメディアの間に横たわる決定的な違いとは何でしょうか? その違いを端的に示すために少し遠回りをして、まずは映画について考えてみたいと思います。

ラ・シオタ駅への列車の到着:リュミエール兄弟,1895年

 実は、映画は当初「体験」するものでした。リュミエール兄弟が撮影した最初期の映画を 我々は今でもDVDやストリーミングの形で見る事ができます。工場から家路につく人々の様子や列車が駅に到着する映像など様々な日常の風景が映像として映し出されました。列車が到着する映像が流されたとき、観客は大騒ぎになったと言います。このエピソードは、映画がまさに体験であった事を示しています。
 そしてこの映像は今なお体験的です。私は大学のイベントでこの映像をスクリーンで見ましたが、蒸気を吹き上げながら眼前に迫ってくる機関車には圧倒的な迫力とリアリティを感じました。19世紀の観客達と違って、私はそれが映像だと知っているので逃げ出したりはしませんが、少なくともその映像の本質はリアリティにあったように思います。

水をかけられた散水夫:リュミエール兄弟,1896年

 映画が鑑賞の対象となったのは、そこに物語性が生まれてからの事です。具体的には台本と編集、カメラワークが導入されてからの事だと考えられます。映画が物語性を獲得するまでには、ほとんど時間は要りませんでした。「水をかけられた散水夫」と呼ばれる作品が鑑賞の対象となった映画第一弾です。この映像ではホースで水をやろうとしている男性と、もう一人そのホースを足で踏んづけている男性のドラマが描かれています。ドリフの起源はすでに1890年代に存在していたようです。そしてこの映像は、上記の列車の到着風景などと同時に上映されました。つまり、映画はその登場時点から既に鑑賞対象となる可能性を内包していたのです。この後、映画は編集やカメラワーク、音声など様々な技術により表現手法の幅を広げ、より高度な物語性を獲得していきます。

 鑑賞する映画と体験する映画の決定的な違いは、表現しようとしている内容にあります。列車の映像が現実の再現を目的としているのに対して、散水夫の映像は虚構の再現を目的としています。虚構とは作者の頭の中にある物語です。芸術論については専門ではありませんが、あえて言うならば芸術性の高いメディアが鑑賞の対象ということでしょうか。

 パノラマVRが鑑賞の対象ではなく、体験するメディアである理由もこの違いによるところが大きいと思います。特に商業用途のパノラマVRは現実の風景を再現する事に重点を置きます。写真表現の芸術性の幾つかは、フレーミングや露出、ボケ味などにありますが、パノラマVRはこれらの表現と相容れません。全方位を収録するためフレーミングという概念は存在せず、全方位を接合した画像を生成するためにパンフォーカスで撮影するので、被写界深度の浅いボケ表現は使えません。

 この違いは、何もパノラマVRがメディアとして劣っているというわけではなく、ある種の芸術性をカメラマンが決定しないというだけの話です。実は、パノラマVRにおいてフレーミングを決定するのは撮影者ではなく閲覧しているユーザであり、フォーカスを設定するのもユーザの視覚自体なのです。言い換えると、パノラマVRは作者の虚構という押し付けから解放された自由なメディアであるとも表現できます。この点については、インタラクティブという言葉がキーワードになります。

 次回も引き続き、パノラマVRのメディアの特質についてさらに掘り下げていきたいと思います。